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『海辺のカフカ』

村上春樹作品初の舞台化。
演出は巨匠・蜷川幸雄。
しかも自分が小説の世界にはまるきっかけともなった作品とあり、チケット代もなんのその。

二階の二列目中央寄りでなかなか良い席だった。

最近また原作を読み返し、最後の百ページほどを残して観劇。

気になる配役、主演カフカは柳楽優弥。これは文句なしだ。
ヒロイン、というべきか分からないけど佐伯さんは田中裕子。
個人的に好きなもう一人の主人公ナカタさん役に木場勝己。
カフカを姉のように助けるさくら役に佐藤江梨子。
いい感じだ。

初っ端、舞台装置に魅せられる。
いくつもの透明ガラス張りのコンテナに乗ったセットを黒子たちが浮遊させるようにゆっくりと動かす。無機質な素材で仕切られたいくつもの容器の組み合わせ。そこに人間の力が加わることで舞台の奥行きと幅いっぱいにひとつの世界を作り出す。こりゃ大変だ。
その合間からこれまた透明なガラスケースに横たわって、カフカ登場。ガラスの容れ物の中で動かないカフカ、はじめは人形かと思った。とても幻想的なオープニング。

そしてカフカと、カラスと呼ばれる少年のシーンからスタート。台詞も原作通り。
劇中の台詞は原作に忠実で、まるで本をめくるように淡々と物語が進行していく。でも本と違って、台詞には役者の表現しようとする感情が乗っかってくる。そこが新鮮であり、違和感を感じずにはいられなかった部分。村上春樹作品の登場人物たちは、ほとんどが感情を表に出さない、クールなイメージ。感情を直に伝える舞台演劇にするには難しいのかも。でも映画化されたノルウェイよりも、わざとらしさがなく、すんなり受け入れられる。これが舞台の力か。目の前でスピーカーなしの、一度きりの言葉が発せられ、ディスプレイ越しではなくより直接的に、観る者を異空間に連れて行ってくれる。映画はあくまでも視覚的、聴覚的なもの、いわば視聴するもの。対して生の演劇には、視覚、聴覚以上の何かがある。身体的に、精神的により深く体験するもの。今回は何ヶ所か役者が台詞に支えそうになる場面もあって、そこがより魅力を感じさせる。

書き始めたら本当にきりがない。
時系列は無視して、思いつくがままに書き残そうと思う。

ナカタさんと猫の会話の場面。
猫はどうするんだろうと思ったら、人間と同じサイズで気ぐるみ。
子供役のマメ山田が三輪車で走り回りながら、怪しげに見つめる。
不自然な場面でも、観客に近い目線で見れる人物を投じたり、
不自然さを逆手にとったコミカルな演出を取り入れることで、そのギャップが埋まってしまう。

つなぎで流れたThe DoorsのBreak on through。

さくらの部屋で飲むペプシコーラ、星野青年が火をつける赤のマルボーロ、ナカタさんの登山帽とボロボロの靴などが世界観を忠実に再現する。大島さんのロードスターを運転するシーンがないのが残念、マツダがんばってくれよ。

カラスと呼ばれる少年の存在は、舞台上で具現化されることでより大きくなった。
小説で感じていた印象では、カラスは悪魔メフィストフェレスのように、主人公が立ち向かうべきもう一人の自分だった。
舞台上で実体化されて表現されたカラスは、少年カフカのよき理解者であり、協力者のようにさえ思えた。

ジョニーウォーカーがナカタさんの目の前で猫を虐殺するシーンでは、
カフカが図書館(原作では山奥のキャビンだったが)で、ナチスのホロコーストを指揮したアドルフ・アイヒマンについての本を読むシーンとシンクロさせる。“暴力”とは何か。
ジョニーウォーカーが猫を殺すシーンは、小説で読んだ時のほうが生々しく感じた。

生身の人間として表現されたとき、一番観客に近い存在だったのが、星野青年。
ナカタさん、カーネルサンダーズ、なんでも受け入れてしまう。
ほぼ唯一、現実的な目線を持ちながらもしっかり物語に溶け込んでしまう存在。
結構重要な登場人物だったなと再確認。

カフカと佐伯さんが関係を持ってしまうシーンでは、二人の乗るガラスケースが合わさって最初は遠近法を使い、夢か幻のような印象を与えながら、だんだんと重なりあっていく、とてもスピリチュアルな感じの演出。ガラスケースはそれぞれの世界。

“海辺のカフカ”の曲も聞けた。
意外に歌謡曲テイスト。

まだまだもっともっと長くなりそうだが、そんなこんなで休憩挟んで約4時間、物語に浸る濃密な時間を過ごした。

柳楽優弥は目力が凄かったな。ギラギラ。声の印象もだいぶ違った。

やはり小説を読んだだけでは分からない、物語の持つ意味だったり、新たに発見する仕掛けもあった。

読書の追体験なので、大きな感動まではなかったけど、

誰かの夢の中に浸っていた気分。

たまにはこういう体験して、

現実世界に対抗するための想像力を磨かないとな。


帰りにおばちゃんが騒いでいると思ったら、

某有名スケート選手が観劇しにきていた。

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by yuzuruzuy | 2012-06-22 17:19 | 表現

『ウェルカム ニッポン』

大人計画の公演は二度目。

開演前の諸注意で、劇団員で音楽家(自分はそっちで知った)としても活動する星野源の『諸注意の歌』が流れた。星野源はCDも持っているので、生の演技を観てみたかったけど、別の舞台に出演中ということで歌での登場らしい。

そして開演。いきなり外国人が出てきて、何やら国際的な空気。そして英語で歌い出した歌(字幕付き)に笑い、役者全員が登場、それぞれ、ニッポンの偉人、有名人のコスプレで。金八先生(阿部サダヲ)、野口英世、坂本龍馬、手塚治虫、ヤワラちゃん、サザエさん、アラレちゃん、浅田真央、裸の大将(荒川良々)などなど。そんななか松尾スズキがドラマで演じていた岡本太郎の格好だったのには笑った。出だしから大人計画ワールドにバッチリ掴まれる。

ストーリーを簡単に。
ある日本人の男を頼りにNYからやって来たエイドリアン。しかしその日本人男性は震災のあった3月11日から連絡がつかなくなっていた。彼の居場所を求めてたどり着いた町には、クズのようないわゆるダメ人間ばかり。エイドリアンは周囲のダメさに飲み込まれていく。

震災やNYのテロと絡めた、少しシリアスな作品なのかなと思いきや、そんなわけがない。だって松尾スズキだもの。

テレビや映画じゃ見れない、ブラックでシュールな笑いが健在。こんな時期に、あの国のあの人をあんな風にネタにするなんて。会場大爆笑。人形映画『チーム★アメリカ』を思い出した。松尾スズキはもしやSouthParkを見ているんじゃなかろうか?

あとは細々した笑いのネタがとにかく多い。最近のネタからひと昔前のネタまで、年齢によって笑えるところと“?”が並ぶところがたくさん。碇ゲンドウ、楳図かずお、稲川淳二、舌出しローラ、たけしの浅草キッド、ナシ高由里子…自分はどれだけ汲み取れただろうか。ナレーションの声が万田久子とか、いちいち面白い。

どうでもいい内容なのにどこか引っかかるような台詞の会話を、デジャヴ的にループさせるところは個人的に好きだった。観ている自分の頭が狂ったのかと思わせるようなあの感覚は、舞台のライブ感があってこそ。

それからホストクラブのオーナー役、荒川良々の淡々としたシャンパンコールからのひとり芝居がウケてた。会場拍手。客の反応で役者の演じ方や間の取り方も変わるだろうし、そこが舞台演劇の醍醐味だろうな。にしても荒川良々、本物はデカくて結構存在感ある。

TVでの活躍でいうと阿部サダヲが飛び抜けているだろうし、キャスト名でもトップになっているのに、舞台上で特にひとりだけが目立っていた、ということがないから不思議。役者ひとりひとりに見せ場があった。まさに個性派集団。全員で浮いてる。演技するクドカンも相変わらず新鮮だった。

結末を色に例えるなら、黒寄りのグレー。図工の授業のあとの、絵の具の水入れみたいに濁り淀んだ感情。一方でその傍らには色彩豊かな絵画が完成しつつあるのだけれど。素直には笑わせてくれない。確信犯的に、汚れた水の方を見せるような。でもそこが癖になるのだろう。

久しぶりに脳みそを掻き回された。ひたすら歪んでいる。ゆがみ、ひずみは、“歪み”と書く。不正。正しくなくても大丈夫。これはない、なんじゃこりゃ、そんなセリフ、大人計画、松尾スズキの世界では何の意味も持たないのかもしれない。

…芝居に影響されて少し饒舌になってしまった。

面白かったです。

しかし舞台演劇は役者のエネルギーが直に伝わってくるぶん、見るほうにもかなりのエネルギーがいるなぁ。

にしても、演出家ってすごい。
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by yuzuruzuy | 2012-04-19 23:13 | 表現

しみる言葉たち

とある本を読んでいて、使いたくなるような言い回しが連発中。
なので感想とは別に書き残しておく。

≪通奏低音≫
(音楽用語)2声部以上の音楽において、途切れることなく奏される低音声部。
──音楽用語を文学で用いた知的な表現。
疑問や不満が“執拗な通奏低音となって心の底に響いていた”
アジカンの『架空生物のブルース』の歌詞でも印象的に使われていた。心地よい響きの語句。

≪豪放磊落(ごうほうらいらく)≫
気持ちが大きく、小さいことにこだわらないようす。
──いい加減とか、大雑把とかいう言葉では表せない人のスケールの大きさを評せる。
自分の性格からは程遠い、ちょっと憧れる四文字熟語。
こんな言葉を使って人を評することができる当人は、豪放磊落ではなかったりする。

≪エロキューション≫
話術。台詞回し。発声法。
──専門用語っぽいけど、カタカナにすることでちょっとおしゃれ。
畏まった文章の中で急に使われたら“エロ”って二文字がかなり効く。

≪訥々(とつとつ)≫
つかえつかえ話すさま。口ごもりながら話すさま。
──口下手な人も、前出の語句と合わせれば“独特なエロキューションで、訥々と語る”なんていう風にとてもあいくるしく描ける。

≪目茶≫
めちゃの当て字。すじみちの立たないこと。わけのわからないこと。度をはずれて法外なこと。
──滅茶と書くよりも、柔らかくユーモラス。ひっくり返したらお“茶目”なところもいい。

≪滋味≫
うまい味わい。滋養のある食物。物事の豊かな深い味わい。
──日本語にはこのような豊かさを表現する語句がたくさんある。
この二文字自体が“滋味あふれる語句”。読んでいて涎が出てくるような。
話し言葉では“地味”と混同してしまいそうな、書き言葉ならではの味わい深い語句。

≪諄々(じゅんじゅん)≫
ていねいに繰り返し教えいましめるさま。まめやかにいそしむさま。
──面倒に思うような説教も、このように書くなら味わい深い時間に。
まぁ本当に面倒な説教なら、間違った用法だろうけれど。

≪干天の慈雨≫
(慣用句)困惑しきっているときに救いが現われたり、待ち望んでいたときに期待したものが得られたりすることのたとえ。類語=地獄で仏
──“晴天の霹靂”はよく聞くけど、こちらも天気に関する慣用句。慈雨って言い回しが良い。
諄々と優しく説いてくださる○○さんの言葉はまさに干天の慈雨のように僕の心に深くしみこんだ”

≪含羞(がんしゅう)≫
はにかみ。はじらい。
──“はにかみ”なんてのは若い人に使えばストレートでかわいらしいけれど、それだと少し軽すぎるような、年上の人に使うならこっち。とっつきにくい先輩の意外な一面や、人間味を書くときに効きそう。
恐い人だと勝手に思い込んでいたが、実際に会ってみれば、“少年のような純粋さと含羞を感じさせる。”

≪伝法(でんぼう)≫
いなせな態度。特に女が勇み肌をまねること。
──強気で乱暴に見える女性でも、実は真面目でひかえめだったり…そんなギャップを書かれたら魅力倍増。


このように、含蓄ある多様な表現で出会った人々を実に魅力的に描いていてとても面白い。
一見ネガティブに受け取れる一面も、言葉の魔法で心地よく伝わってくる。
現代語はどんどん簡略化されて、分りやすくて刺激的な言葉が好まれがち。
少々難しくても、こういう言葉たちはいつでも使える場所に大事にしまっておきたい。
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by yuzuruzuy | 2011-05-24 01:53 | 表現

『PUNK OPERA 時計じかけのオレンジ』

舞台版・時計じかけのオレンジ
演出:河原雅彦
主演:小栗旬

【感想(殴り書き)】
アンソニー・バージェスによる原作と、スタンリー・キューブリックによる映画の両方を踏まえた作品だった。
“選択の自由”という作品のテーマを、2つの結末に託して表現していた。映画しか観たことがなかったので、『時計じかけのオレンジ』が持つ新たな一面を観れた気がする。そして、原作と映画がもつギャップを突くように、この舞台でしか生み出せないようなシーンも多かったと思う。登場人物に、「こんなシーンは原作に無かった!」と言わせたり、休憩前の説明などのライブ感のある台詞は舞台ならでは。ロドビコ療法のシーンをまたいだ休憩中、小栗旬はずっと椅子に拘束され舞台上の箱に閉じ込められている状態で、その間も叫び声が聞こえて、劇は続いているように思わせるなど、不気味な雰囲気が続いていた。そして映画版同様、音楽が良かった。音楽で表現するシーンでは演奏するバンドの姿が舞台上部に透けて見える演出。舞台構造は左右両面が大きな鏡の壁になっている。後ろはヴィジョンになっており、それぞれのシーンに合わせた映像が流れる。主人公が老婆を殺害するシーンでは、老婆の生涯が撲殺されるまで走馬灯のように流れる。ベートーベンの肖像と主人公の顔が重なり合うような映像が特に印象的だった。台詞のナッドサッド語(近未来のスラング)が作品に及ぼす影響も改めて感じた。私生活でも使いたくなるくらい。結末について、いきなり世界が変わってしまったような違和感はあったが、小栗旬の歌声が聴けて観客は満足なんじゃないかな。武田真治が老人役からコミカルな役、目立たない脇役まで、彼とは気づかないような演技で、個人的に一番。もちろん、休憩時間も(おそらく)舞台上にいて、同じ人物とは思えないほどさまざまな顔を持つ主人公アレックスをぶっ通しで演技した小栗旬も凄い。歌はあんま上手くなかったけど、魂こもってた(何様?)。映画の印象が強すぎたので、ちょっと物足りない感じもあった。もっと不気味な作品を予想していたけど、意外に爽やかに思えたのは、2番目の結末の効果だろう。ひとまず原作を読んでみよう。
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by yuzuruzuy | 2011-02-12 23:45 | 表現

『バリバラ』

NHK教育で毎週金曜日20:00~放送されている『きらっといきる』
この番組の毎月最終週放送回で流れているバリアフリーバラエティー
略して『バリバラ』

昨年末に偶然見て衝撃を受けました。
出演しているのは障害者の人々。
障害を持った人々が笑いを通して自分を表現するという趣旨の番組です。

僕が見た放送回でやっていたのは、イギリス公共放送BBCとのコラボレーション企画
むむっ、BBCといえばこの前の被爆者ネタが脳裏を過ぎりますな。
イギリスで実際に放送されているラジオ番組の様子が流れていました。
投稿者の持つ障害の名称を、同じく障害者であるパーソナリティーが質問して当てるというコーナー。
答えとして障害の症状の名前が、日本の感覚ではこんなノリでいいの!?てな勢いで飛び出していました。
しかし出演者たちは陽気にそれらを笑いに変えて放送しています。
さらに、脳性まひの女性コメディアンも登場。
ライブ会場のイギリス人たちは彼女のトークに爆笑。
す、すげぇ…さすがイギリスのユーモア。
そう思うと同時に、これ、日本でやって大丈夫なん?
視聴後、かなーり考えさせられました。
NHK、攻めよるなぁ…

そして年が明けたある夜、テレビをつけるとその『バリバラ』のスペシャル版として、
『笑っていいかも!?』と銘打ち、2時間も放送していたからまたビックリ。
目玉は“SHOW-1グランプリ”という、障害者たちが笑いで戦う企画。
なかでも優勝した“脳性マヒブラザーズ”という脳性まひのコンビによるコントに衝撃。
脳性まひの医者の元に来た、脳性まひの患者。
“体調が悪くて…風邪だと思うんですよ。”そう主張する患者に、
“どこが悪いんですか?”と問診を始める医者、その結果、
“分かりました!あなた…脳性まひですね!”医者が宣告すると、
“いや、風邪だと思います!”と認めない患者。
そんなやりとりの応酬。
自分たちの武器をこれでもかというくらいに生かした、彼らにしかできないコントです。
そこには某局のチャリティ番組にあるようなお涙頂戴的感動はなく、
絶妙な間の取り方や台詞選びに、純粋に笑わされてしまいました。

他の企画ではそれぞれの障害の重さに合わせた距離からスタートする超短距離走や、
障害者が健常者にドッキリを仕掛けるといった際どすぎる内容に、“笑っていいのか!?”状態。
僕は面白い場面には笑いましたが、不快に思う人もいると思います。
また、自分が彼らと同じような障害を持っていたら素直に笑えるのかと問われると、
はっきりとは答えられないとも思います。

NHKらしく、障害について、そしてこの番組の捉え方について討論するコーナーもありました。
その部分だけでなんとか放送する意義を保っていたといっても過言ではありません。

障害について笑わせながら考えさせる斬新かつ大胆な試みに、思わず見入ってしまいました。


自分の経験を思い出しました。
小学校の掃除時間に、特別学級(呼び名は正しいのかな?)の子との掃除を任されたことがあります。
障害の名前は分からないけれど、脳性まひと思われる車椅子のN君と一緒に掃除をしていました。
そのときの自分はどんな気持ちで一緒に掃除していたのだろう?
可哀想という感情はなかったけれど、言葉も通じているのか分からなくて、
N君の分の雑巾を絞って“ここ拭いてね”と話しかけ、返ってくる声色で今日は元気だなとか、機嫌が悪いのかな?などと思うしかありませんでした。
彼は僕のことをどう思っているのか?覚えているのか?などと考えたこともあります。
無意識のうちに境界線を引いていたかもしれません。


中学、高校、大学では障害を持つ人と関わることもなくなりました。
だから久しぶりにこのような番組を通して考えさせられて、
自分の触れていない世界にまた目を向けるきっかけになったと思います。
小学校では、障害者を差別してはいけないと習ったけれど、
そこには話題にすることさえタブーとしている雰囲気があります。
この番組は、その“差”を笑いで埋める試みなのだと思いました。
そして誤解を恐れることなく議論していかなければというメッセージも感じられます。

使い古された表現だけれど、“障害は健常者が作ったコトバ”でしかない。
障害者は不自由なのではなく、むしろその特徴がなければできないことがある。

障害者も健常者も一緒になって笑えたら、
それが本当のバリアフリー。

この前の被爆者を取り上げたBBCの問題とも重なり、
“笑いは世界を救うのか?”
きれいごと(理想)と厳しい現実を結びつけるために笑いはあるのかな。
また深く考えさせられる体験でした。


よいこ日記でごめんやす。

最後に、番組HPに載っていた、障害に関する川柳コーナーからの一句でやんす。

ぼくの皿 おさげします?と 妻に聞く 

レストランで店員が、障害者の“ぼく”のお皿を下げるとき、“ぼく”ではなく妻に聞いたという体験を詠んだもの。

鋭い…



バリバラ、良かったら観てみてください。
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by yuzuruzuy | 2011-02-01 02:12 | 表現

続・笑える世界

おととい書いた被爆者をネタにしたBBC番組について、
Twitterでも話題になっていて、そこから興味深いページへのリンクが載せられていた。
ここからもリンクさせていただきます。


そして問題となった番組映像も。
コメントで議論が交わされているのも
TVニュースだけだと分からなかった部分が見えてくる。



全てが全て“嘲笑”という風には受け取れないし、ニュースでは流れなかった、
イギリスの鉄道をネタにするところなど、コメディとして笑える部分もあるように思えた。
“被爆者”自体を笑い者にするのではなく、その人物に対しての敬意もあって、
あくまで笑わせているのはコメディアンの発想なのだと捉える事ができるかどうか。
それができてるのかな?いや、そこまで深く考えてないだけかも(笑)
にらめっこみたいなもんで、笑ってしまったら負け。
それはそれで分かりやすい。

日本には“笑う”ことを一方的に悪いことだと思う風潮がある。
そう考えると関西に来て強く感じた、笑われることを“おいしい”と思えるユーモアは凄い。
“笑われる”と思う以上に“笑かしてやる”っていうのが強いから、
貧しさとか、性格の暗さとかネガティブに受け取られがちなものも笑いに転化してしまう。


マスコミの世論を煽動するような報道の仕方や、
原爆をタブー化してすぐに蓋をしてしまう日本人の価値観についても、
見直していかなくてはならないと思った。

んーそんなこといちいち考えてたら簡単に笑えないな。

日本が抗議して価値観をぶつけたことは正しいと思う。
ただ“謝れ”だけで済ますんじゃなくて、
そこから議論が進んでお互いの価値観を理解することが必要だ。
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by yuzuruzuy | 2011-01-23 20:27 | 表現

笑える世界、つくろうや。

BBCが広島、長崎で二重被爆した男性を「世界一運が悪い男」とジョークにして放送したらしい。
イギリスの皮肉な笑いは好きだけど、国営放送でこれは…いくらなんでもやりすぎ。
今回放送された映像を見ると“無神経”としか言いようがない。

悲劇の中に喜劇を見出すような笑いはよくあるけれど、
原爆は日本人にとってナイーブすぎるテーマで、悲劇にしかならないからなぁ。
イギリスが被爆国だったらそれすら自虐的に笑いのネタにするのだろうか?
そのジョークに国民は笑うのだろうか?
しかし逆にそれを日本がやってしまったら、国際的な目は変わるのではないだろうか?
その自虐ネタができるのは日本だけ。これは武器にもなる。
日本おもろいやん!腕上げたなぁ…!
…なんて事には、なるわけないな。あくまで妄想です。

今思い出したが、広島では小学校のとき夏休みに“原爆教育”というのを受けていて、
毎年原爆についての映画を見せられた。
その中で、なぜ広島が選ばれたのかというシーンで、いろいろな要素があったなか、
最終的には実行される日の天気で決まったという。
それを知った幼い僕の純粋な反応は“何で広島なんじゃ”という無責任な考えだった。
もはや“運悪いな”と同じくらいの感覚だったかも知れない。まだまだ子供だったな。


僕の祖父は広島で被爆したけど、それを「運が悪かった」などとはひとつも思ってないはず。
むしろ被爆後何の後遺症もなく助かったことを「運が良かった」と思っている。

でも外国からみたら、原爆投下も「不運」な出来事と片付けられてしまうのだろうか…
立場の違いでこれほどまで受け取り方が違う。笑える人もいれば笑えない人もいる。


ひとつの表現に対して、相手がどの部分に不愉快になっているのか?
どの部分に笑っているのかは、相手によって違う。
そこんところを深く考える必要があると思った。

この番組を放送した人も、深く考えてなかったのだろうけど、
イギリスが核保有国だと思うとなおさら笑えない…


いつか核兵器がない世界で、
原爆が“ありえない話”として、
世界中の人を笑わせている事を願います。
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by yuzuruzuy | 2011-01-21 19:55 | 表現

プロフェッショナル グラフィックデザイナー 佐藤卓

数々のヒット商品を手がけるデザイナー・佐藤卓
クールミントガムやキシリトール、ゼナ、おいしい牛乳など、
強烈なインパクトは無いながらも長く愛される商品のパッケージデザインを生む秘訣。
“自分”を消す

デザインは主役ではなく、本来気づかなくたっていいもの。
あっと驚くようなものはプロとしてはできて当たり前。
生活者の感覚に自然と、すっと入り込めるデザインを生むのが醍醐味。
そのために
商品の“本質”をつかんで
それをそのままデザインにする。

ただ“変わったもの”ではなく、その全てに意味を持たせて納得させるようなデザイン。
使い易い“機能”を突き詰め、徹底的に消費者の感度に合わせつつ、商品開発者の思いをも大切にする。
そして、
物語を、込める。

遊び心を取り入れて、楽しんでもらえるように。
そうすることで愛着が湧き、手に取る人から長く愛される商品になる。

アイデアの気配
ここに何か可能性があるぞと、…気配を感じるかどうか。たぶんね、思いつくってね、気がつくってね、ほんのわずかなことなんで、結構みんなそんなことあるような気がするんですよ。ただそれを、こじ開ける…その可能性の穴をこう、グッグッとこじ開けて行ってみるっていう。でカタチにしていってだんだんこう、見えてきて、あっ、いけるかも…が、いける!に変わっていくわけですよね。

才能で勝負している世界の人たちはみんな言うけれど、本当に地道な作業なんだよな。
その“こじ開ける”チカラが、才能でもあるんだろう。

≪面白いものは“本質”をつかんでいる≫とつくづく思う。
だから多少無茶に見えたとしても、伝わってくるものがあるし、的から外れていない。
まずは徹底的に“本質”が何か?
それをまっすぐ見つめ続け、考え続けることだ。

放っておくと人はすぐ、流されて余所見をしがちなのだ。

商品はいつしかなくなってしまっても、デザインはいつまでも人々のココロに残る。
素敵な仕事をしているなぁ。

僕たちは、無意識のうちに、手触りや色、カタチなど、たくさんの情報をインプットした結果、
店頭で商品を手に取り、購入している。そこには必ず仕掛け人がいる。
なぜ自分がその商品を買ったのか、作り手の立場になって、じっくり考えてみよう。
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by yuzuruzuy | 2010-12-18 23:55 | 表現

マン・レイ展 @国立国際美術館

Unconcerned but not indifferent

マン・レイの墓碑に記された言葉

“無頓着、しかし無関心ではなく”

とても微妙で、意識と無意識の隙間をつくような感覚的な言葉

自分もそんな態度で彼の作品と対峙して

無意識の中で何かを感じとることができたら良かったのかな

作品を見ながら、自分も作品に見つめられているようでとても疲れた


まったく気にしていないように見せかけて

実は片方の目でじっとレンズの奥から覗きながら

一瞬の美しさを逃さずシャッターを切る

マン・レイはそんな風に世界を眺めていたのかもしれない

それにしても一体どんな思考回路があんなにも多彩な表現を生んだのだ?

妻のジュリエットもすごくパワフルだった

いつかまたパリに行くときは

モンパルナスへ

墓参りに行こう


もひとつ、マン・レイの好きな言葉
Smile,
your teeth are not only made
for eating
or biting.

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by yuzuruzuy | 2010-11-09 23:49 | 表現

『ハーバード白熱授業@東京大学 日本で正義の話をしよう』 後半

【Lecture 2】戦争責任を議論する
サンデル氏:これからの講義では、正義の3つの理論や道徳的責任、道徳的義務の問題に関する、さらなる問題を議論したい。

われわれの道徳的義務は、厳密にはどのように生じるのだろうか?

自由意志や、個人の選択の結果としてのみ生じるのだろうか?
それとも、一定の伝統や、文化や、歴史的なアイデンティティを受け入れたり、それに従って生きているということによって生じるのだろうか?

すべての道徳的責任は、個人的なものなのだろうか?
つまり、自分で犯した過ちには責任があるが、自分の前の世代が犯した過ちには責任が持てないというように。

あるいは、集合的な道徳的責任はあるのだろうか?
道徳的責任は、世代を超えて及ぶことができるのだろうか?

──サンデル氏の話では後半はこういった議論の内容。歴史も関ってくる。

まず考えるのが≪家族に対する忠誠心、義務の問題≫
Q.キミはは東大の有名教授だとする。キミの弟は暴力団員で、殺人罪で訴えられている。キミは、弟の隠れ場所の心当たりがある。当局がやってきたら、キミは弟の居場所を教えるか?

最初の意見
捜査に協力する。
家族の一員であるかそうでないかで判断する前に、自分の中の判断の一貫性を大事にするから。
家族のメンバーが社会の誰かを殺してしまうということは、家族のメンバーとして許してはならない。
ひとりの人間としての道徳を重んじた考え方。自分もこちらの考え方。

反対意見
弟を守る。
家族を信じることができなければ、社会も信じられない。
兄弟を信じられなければ、それより離れた結びつきを信じることはできない。
家族への忠誠心を重要視した考え方。

──自分は捜査に協力する前者の考えに賛成。

≪愛国心の問題≫
自国と他国、大災害が起きたとき、
手助けするための道徳的義務は、自国のほうにより大きく生じるか?
それとも、その道徳的義務は等しく負うべきものか?

挙手では、前者の自国への愛国心を重視する考え方のほうが多かった。
──自分は後者で、愛国心よりも、広く人間的な道徳的義務として等しく負うものだと考える。

前者の人々は、自分が日本に生まれ育ったことの恩恵を感じることで、まずは日本人を助けるべきだと考える。
“コミュニタリアニズム”の考え方。
コミュニタリアンは、人間の人格はコミュニティの中で形成されるとして、コミュニティの価値を重視する考え方。

後者の考えとして、挙がった意見
寄付できるお金が100円だったとしても、50円ずつに分けて寄付することもできる。
日本人だから日本人を救うというのは違うのではないか。

これに対しサンデル氏「もし困っている日本人と外国人2人のうち1人しか助けられなかったら?」
意見者は、そのときはそれぞれの国の状況を見て、より貧しい国の人を助けると考えた。
──難しい問題だ。もしこういう状況になったら、誰でも少しは愛国心が出てしまうだろう。
それでも自分は、国に関係なくより助けが必要だと自分で判断した方を選びたいとは思う。


≪道徳的責任は、世代を超えて負うべきものか?≫

第二次世界大戦での日本が東アジアで犯した過ち
現在の日本人に、それを公の場で謝罪する道徳的責任はあるのか?

最初の意見(No)
過去の出来事を認識する必要はあるが
いつまでも謝り続けるわけには行かない。

反対意見(Yes)
自分の父親、祖父の世代から直接つながっていることは確か。
相手が痛みを忘れるまでは謝り続ける必要がある。
こちらの意見としては、
今の世代はポンと出てきたわけではなく、連続している文化のもとに生まれてきたのだから、
過去の話だから関係ないとはいえない。現在まで続いてきている問題だから。
という意見が出る。
コミュニティの文化や価値観は世代を超えて継続し、そこに前の世代の道徳的責任も含まれるという考え方。


それに対する(No)の意見
戦前と戦後では価値観が変わってしまっている。
戦争で領土を増やそうと考えていた世代と
憲法九条のもと育った世代では責任のとり方も変わってくるのでは。


(Yes)側の意見への補足
歴史を加害者側の視点から観るべきではない
被害者の立場に立てば、今でも苦しんでいる人々がいるし、
その人たちのためにできる限りのことをする責任がある。

≪アメリカ人の現世代は、ヒロシマ、ナガサキの原子爆弾投下に対して、責任を負うべきか?≫
オバマ大統領は原爆投下を謝罪すべきかどうか?

(No)の意見
われわれは生まれてくる場所は選べない。
自分の意思により選択して起こったことに責任を負うのは当然だが、
自分が生まれていない前の世代に起きたことについて責任を迫られても納得できないのでは。

サンデル:大きな問題が提示された、今まで追い求めてきた哲学的な問題だ。

全ての道徳的責任とは、われわれの選択や意思から生じる義務なのだろうか。
それとも、ほかのところからも道徳的責任が生じることがあるのだろうか。

道徳的義務は、個人的なものか?それとも、より集合的なものか?

オバマ大統領にとっての、最善で最適な表現はなんだと思う?
彼が生まれる前に、アメリカが原爆を投下した道徳的責任や、道徳的重荷について、表現するとしたら。

オバマ大統領は原爆投下に対して謝罪すべきか?
あるいは、現世代のアメリカ人は、核兵器のない世界の実現のために果たすべき、特別な責任、特別な道徳的重荷があると、オバマは考えるべきなのか?
それとも、その両方なのか?

──自分は道徳責任は世代までは超えないと考えた。
日本が東アジアで犯した過ちは、許されない、二度と起こしてはいけないものとして自分たちの世代も認識する必要がある。
そして、これからの世代にはその歴史と向き合いながら、
より良い未来へとその国々を思いやっていくことが、謝罪を超えた表現の仕方であり、
オバマ大統領がすべきことも同じだと思う。
国というコミュニティを超えた、この時代、この世界に生きるひとりの人間の道徳的責任として、
核兵器を二度と使わせないこと、核兵器のない世界をつくるということが課せられているのではないか。


≪最後にサンデル氏から≫
政治において意見が合わないとき、道徳や、共通善、正義が直面する大きな課題について、決して同意することがないのに、どうしてわざわざ考え続けるのかといわれることがある。ある意味それは正しい。哲学は不可能に見える。なぜなら、偉大な哲学者たちが何世紀にも渡り執筆してきたのに、合意に達していないし、結局彼らにも結論は出せなかった。ではどうしてわれわれがそれ以上にできると自信を持てるのか。わたしの答えは、哲学はある意味不可能だが、決して避けられないものなのだ。ということだ。われわれは毎日その問いに対する答えを生きている。哲学者たちの問いだ。何よりも感動的で、刺激的だったのは、ここにいるキミたちと、2つの講義で行った議論が、哲学は世界を変えることができると、示してくれたことだ。キミたちは意見を戦わせ、正義について、ともに考える力を見せてくれた。どうもありがとう。


──議論すること、そのために自分の意見を持って、相手の意見に耳を傾け、議論を通して学ぶこと。
堅苦しくなく、普通にそのような場が持てたらいいし、議論しながら社会と関わって行かなくてはな。
とにかくいろんな立場にたった考え方の人がいた。普通に暮らしてたら気づかないけど。
グローバル化とひとくちでは言っても、価値観は一致することはない。
その中で生きることに議論は欠かせないのだな。
政治家やコメンテーターや人気芸能人ではなく、TVで一般市民、学生たちが意見を戦わせる様子は、観ていてみんなも勇気が湧くんじゃないかと思った。
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by yuzuruzuy | 2010-10-20 05:56 | 表現


つまらない、面倒くさいを、面白く。


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