『ハーバード白熱授業@東京大学 日本で正義の話をしよう』 後半

【Lecture 2】戦争責任を議論する
サンデル氏:これからの講義では、正義の3つの理論や道徳的責任、道徳的義務の問題に関する、さらなる問題を議論したい。

われわれの道徳的義務は、厳密にはどのように生じるのだろうか?

自由意志や、個人の選択の結果としてのみ生じるのだろうか?
それとも、一定の伝統や、文化や、歴史的なアイデンティティを受け入れたり、それに従って生きているということによって生じるのだろうか?

すべての道徳的責任は、個人的なものなのだろうか?
つまり、自分で犯した過ちには責任があるが、自分の前の世代が犯した過ちには責任が持てないというように。

あるいは、集合的な道徳的責任はあるのだろうか?
道徳的責任は、世代を超えて及ぶことができるのだろうか?

──サンデル氏の話では後半はこういった議論の内容。歴史も関ってくる。

まず考えるのが≪家族に対する忠誠心、義務の問題≫
Q.キミはは東大の有名教授だとする。キミの弟は暴力団員で、殺人罪で訴えられている。キミは、弟の隠れ場所の心当たりがある。当局がやってきたら、キミは弟の居場所を教えるか?

最初の意見
捜査に協力する。
家族の一員であるかそうでないかで判断する前に、自分の中の判断の一貫性を大事にするから。
家族のメンバーが社会の誰かを殺してしまうということは、家族のメンバーとして許してはならない。
ひとりの人間としての道徳を重んじた考え方。自分もこちらの考え方。

反対意見
弟を守る。
家族を信じることができなければ、社会も信じられない。
兄弟を信じられなければ、それより離れた結びつきを信じることはできない。
家族への忠誠心を重要視した考え方。

──自分は捜査に協力する前者の考えに賛成。

≪愛国心の問題≫
自国と他国、大災害が起きたとき、
手助けするための道徳的義務は、自国のほうにより大きく生じるか?
それとも、その道徳的義務は等しく負うべきものか?

挙手では、前者の自国への愛国心を重視する考え方のほうが多かった。
──自分は後者で、愛国心よりも、広く人間的な道徳的義務として等しく負うものだと考える。

前者の人々は、自分が日本に生まれ育ったことの恩恵を感じることで、まずは日本人を助けるべきだと考える。
“コミュニタリアニズム”の考え方。
コミュニタリアンは、人間の人格はコミュニティの中で形成されるとして、コミュニティの価値を重視する考え方。

後者の考えとして、挙がった意見
寄付できるお金が100円だったとしても、50円ずつに分けて寄付することもできる。
日本人だから日本人を救うというのは違うのではないか。

これに対しサンデル氏「もし困っている日本人と外国人2人のうち1人しか助けられなかったら?」
意見者は、そのときはそれぞれの国の状況を見て、より貧しい国の人を助けると考えた。
──難しい問題だ。もしこういう状況になったら、誰でも少しは愛国心が出てしまうだろう。
それでも自分は、国に関係なくより助けが必要だと自分で判断した方を選びたいとは思う。


≪道徳的責任は、世代を超えて負うべきものか?≫

第二次世界大戦での日本が東アジアで犯した過ち
現在の日本人に、それを公の場で謝罪する道徳的責任はあるのか?

最初の意見(No)
過去の出来事を認識する必要はあるが
いつまでも謝り続けるわけには行かない。

反対意見(Yes)
自分の父親、祖父の世代から直接つながっていることは確か。
相手が痛みを忘れるまでは謝り続ける必要がある。
こちらの意見としては、
今の世代はポンと出てきたわけではなく、連続している文化のもとに生まれてきたのだから、
過去の話だから関係ないとはいえない。現在まで続いてきている問題だから。
という意見が出る。
コミュニティの文化や価値観は世代を超えて継続し、そこに前の世代の道徳的責任も含まれるという考え方。


それに対する(No)の意見
戦前と戦後では価値観が変わってしまっている。
戦争で領土を増やそうと考えていた世代と
憲法九条のもと育った世代では責任のとり方も変わってくるのでは。


(Yes)側の意見への補足
歴史を加害者側の視点から観るべきではない
被害者の立場に立てば、今でも苦しんでいる人々がいるし、
その人たちのためにできる限りのことをする責任がある。

≪アメリカ人の現世代は、ヒロシマ、ナガサキの原子爆弾投下に対して、責任を負うべきか?≫
オバマ大統領は原爆投下を謝罪すべきかどうか?

(No)の意見
われわれは生まれてくる場所は選べない。
自分の意思により選択して起こったことに責任を負うのは当然だが、
自分が生まれていない前の世代に起きたことについて責任を迫られても納得できないのでは。

サンデル:大きな問題が提示された、今まで追い求めてきた哲学的な問題だ。

全ての道徳的責任とは、われわれの選択や意思から生じる義務なのだろうか。
それとも、ほかのところからも道徳的責任が生じることがあるのだろうか。

道徳的義務は、個人的なものか?それとも、より集合的なものか?

オバマ大統領にとっての、最善で最適な表現はなんだと思う?
彼が生まれる前に、アメリカが原爆を投下した道徳的責任や、道徳的重荷について、表現するとしたら。

オバマ大統領は原爆投下に対して謝罪すべきか?
あるいは、現世代のアメリカ人は、核兵器のない世界の実現のために果たすべき、特別な責任、特別な道徳的重荷があると、オバマは考えるべきなのか?
それとも、その両方なのか?

──自分は道徳責任は世代までは超えないと考えた。
日本が東アジアで犯した過ちは、許されない、二度と起こしてはいけないものとして自分たちの世代も認識する必要がある。
そして、これからの世代にはその歴史と向き合いながら、
より良い未来へとその国々を思いやっていくことが、謝罪を超えた表現の仕方であり、
オバマ大統領がすべきことも同じだと思う。
国というコミュニティを超えた、この時代、この世界に生きるひとりの人間の道徳的責任として、
核兵器を二度と使わせないこと、核兵器のない世界をつくるということが課せられているのではないか。


≪最後にサンデル氏から≫
政治において意見が合わないとき、道徳や、共通善、正義が直面する大きな課題について、決して同意することがないのに、どうしてわざわざ考え続けるのかといわれることがある。ある意味それは正しい。哲学は不可能に見える。なぜなら、偉大な哲学者たちが何世紀にも渡り執筆してきたのに、合意に達していないし、結局彼らにも結論は出せなかった。ではどうしてわれわれがそれ以上にできると自信を持てるのか。わたしの答えは、哲学はある意味不可能だが、決して避けられないものなのだ。ということだ。われわれは毎日その問いに対する答えを生きている。哲学者たちの問いだ。何よりも感動的で、刺激的だったのは、ここにいるキミたちと、2つの講義で行った議論が、哲学は世界を変えることができると、示してくれたことだ。キミたちは意見を戦わせ、正義について、ともに考える力を見せてくれた。どうもありがとう。


──議論すること、そのために自分の意見を持って、相手の意見に耳を傾け、議論を通して学ぶこと。
堅苦しくなく、普通にそのような場が持てたらいいし、議論しながら社会と関わって行かなくてはな。
とにかくいろんな立場にたった考え方の人がいた。普通に暮らしてたら気づかないけど。
グローバル化とひとくちでは言っても、価値観は一致することはない。
その中で生きることに議論は欠かせないのだな。
政治家やコメンテーターや人気芸能人ではなく、TVで一般市民、学生たちが意見を戦わせる様子は、観ていてみんなも勇気が湧くんじゃないかと思った。
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by yuzuruzuy | 2010-10-20 05:56 | 表現


つまらない、面倒くさいを、面白く。


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