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『ヘヴン』 川上未映子

 芥川賞作家、川上未映子。このまえトップランナー観て、どんな小説書くのだろうと気になり、読んでみる。題名から受けたイメージでは不思議な、ふわふわとした内容なのかなと思ったら、正反対、結構重い、いじめの話だった。
 主人公、“僕”は、斜視の目のせいでいじめられている。少なくとも彼はそう思っている。ある時、筆箱の中に<わたしたちは仲間です>と書かれた手紙が入っていた。その送り主は“僕”と同じくクラスでいじめを受けている女子、コジマだった。ふたりは仲間となって、いじめに耐えようとしていく。コジマや、いじめっ子集団の中でいつも黙って見ている百瀬との会話を通して“僕”の価値観が揺れ動く様子が描かれていた。
 コジマにはすべてを受け入れ、どこか達観しているところがある。
私たちはただ従ってるわけじゃないの。受け入れてるんだよ。・・・それは、むしろ強さがないとできないことなんだよ。

わたしがあの子たちの犠牲者だとしたら、あの子たちもまたなにかもっと大きなものの犠牲者なのじゃないかと、そう思ったりもするのです。
百瀬も悟ったような冷めた態度で、ただ目の前の世界を眺めている。
意味なんてなにもないよ。みんなただ、したいことをやってるだけなんじゃないの、たぶん。

自分が思うことと世界のあいだにはそもそも関係がないんだよ。それぞれの価値観のなかにお互いで引きずりこみあって、それぞれがそれぞれで完結してるだけなんだよ。

弱いやつらは本当のことには耐えられないんだよ。苦しみとか悲しみとかに、それこそ人生なんてものにそもそも意味がないなんてそんな当たり前のことにも耐えられないんだよ。
 すべてに意味があるといって受け入れるコジマと、すべて無意味だと自分以外の世界をただ傍観する百瀬。どちらにも自分の世界観をつくりあげている強さがあって、どちらも正しいような気がして、それが、自分の置かれた状況を受け入れきれない主人公を不安にしていくんだと思った。
 トップランナーで箭内さんが言っていたように、百瀬の言ってることが正しいような気がしてくる。どちらが正しいなんていえない、一発でいじめる側といじめられる側が変わることだってある。
 コジマのような、加害者もどこかで犠牲者なのだという見方にも共感できる。中学のときはどちらかというといじられキャラで、ちょっかいを出されていたときがある。友人ノリの延長線上で、深刻ではなかったのだけれど、いじめられる人に共感できるような、嫌な思いをしたこともある。そんなとき、いじめをする人間に対して、家庭とかでストレスが溜まっとるんじゃろなぁと哀れみのような感情を持って見ていた部分があった。そうすることで、理解できない他人の気持ちと行動に理由をつけていたのか。状況を変えるには、まず自分の見方を変えるしかないのかな。百瀬の言うとおり、それぞれが自分の価値観に他人を引きずりこんでいるだけかもしれない。
 いじめに対しては答えがないままだし、考えれば考えるほど何が正しいのか答えなど出ないのだろうけど、主人公の世界に少し希望が見えてきたような終わり方は良かったかな。
 安部公房を読んでるからか、多少コトバの濃度に物足りなさがあった。てか女性作家読んだのほとんど初めてかも。文豪たちとはまた違った感覚。
 コジマが使う造語、「うれぱみん」=うれしいときのドーパミン、など、意味不明で面白いけど、コジマのキャラがよく分からなくなる。


by yuzuruzuy | 2010-05-01 16:44 | 読書


つまらない、面倒くさいを、面白く。


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